無意識日記

宇多田光記

夏の日の夢の歌


そうなのよね(と前回からの続き)、


『夢見てる君の息の音』


って歌詞が最終盤に登場する以上、『パッパパラダイス』って「夢オチの歌」なのよね。そこまでどんな壮大な物語が展開されてようが結局全部夢でした、ちゃんちゃん♪っていう。


ひとつ間違えば総叩きに遭いがちな手法だけど、この歌の場合はそこは大丈夫そうかな。ヒカルさんは『Show Me Love (Not A Dream)』なんていうタイトルの歌を書いてる事からも分かる通り、あまり「夢」について積極的に歌わない。どうにもそれは、本人が夢を見ると決まって悪夢だったりするからだったのかもしれないけれど、パッパラでは明らかに肯定的に受け止められる描き方になっていて、なかなかこれは新鮮だわね。



今までも夢オチの歌は歌われていない事もない。例えば2006年の『Making Love』は楽曲最後を


『私を慈しむように

 遠い過去の夏の日の

 ピアノがまだ鳴ってるのに

 もう起きなきゃ』


と締め括られているが、これなんかはまさに夢の中で昔の事を思い出してる構図よね。そこから『もう起きなきゃ』と義務的に歌うのは、夢から覚めて現実に向かおうという意味だろう。やはり若い頃は夢から覚める事をススメてるわね。



『パッパパラダイス』も、歌詞の中に


『羽ばたく君を追いかけた夏に』

『斜め掛けしたスイカのバッグに』

『The sky is always blue』

『押しては引く波の音』


といった歌詞が出てくる事からも分かる通り「夏の歌」なのだけど、これも夢オチとなると『Making Love』同様「過去の夏の日」を描いてるのかなとなる。それはパラダイスな一夏を過ごした9歳の夢かもしれないし、大人になってから思い出した9歳の夏の夢なのかもしれない。そこは聴き手の自由よね。



音楽的な観点についても触れておこう。この『夢見てる君の息の音〜』のパート、今まで触れてきている通りそこまでとは異なるリズムが展開されているのだけど、つまりこれ自体が「視点の転換」であって、今までのイキのいいエイトビートが夢の中に於いて(それが夢だと気づかずに)パラダイスを満喫してる様子を表現しているのに対して、8分の6拍子がその夢を見てる9歳のこどもを見守る(例えば親の)視点を表現しているのだと捉える事ができる。


これに似たアレンジがあったなぁ…と思い当たったのが『Keep Tryin’』…のビデオですね。あの歌の2:58辺りからそれまでのリズムを抜いて一旦オルゴール・サウンドになるのだけど、あの場面がビデオでは小さな女の子がベッドで眠ってるカットになってるのよね。如何にも夢を見ているような。ここは楽曲の真ん中、間奏部分だから「夢“オチ”」ではないけれど、異なるサウンドやリズム、テンポによって異なる視点を描いてるという意味では『パッパパラダイス』と共通する部分があると思うわ。



『パッパパラダイス』は非常に壮大な曲で、どれくらい壮大かといえばスイカのバッグにキャンディorグミを詰め込んでたと思ったら最終的に『沈みたくない太陽』っていう“太陽の視点”にまで及んじゃうくらいなのよ。最早地球を飛び出して宇宙の恒星の視点、「星の眼差し」にまで至るんだからこれを壮大と言わずしてどないすんねんと。この壮大さを「夢オチ」で〆るの、「波乱万丈の人生50年を生き切ったと思ったら、ご飯が炊けるまでの間うただ寝して夢を見ていたただけだった」という“邯鄲の夢”(一炊の夢)の故事成語を思い出させるわね。今回のヒカルさんも、そういうコントラストを描いてくれているのかも、しれません。